大山の神教について

愛媛県今治市大三島町にある大山祗神社の祭神「大山積」は山の神・海の神である一方、戦いの神とも言われ日本書紀では伊邪那岐神(イザナギノミコト)・伊邪那美神(イザナミノミコト)の子でした。大山の神教、教祖ミサイの生家はこの大三島にあり、ミサイは幼児の頃より両親に連れられてこの大山祗神社によく詣っていました。その後成人したミサイは東京の吉井家に嫁ぎ神奈川県伊勢原市大山にある「大山阿夫利神社」に詣でるようになったのです。

この大山、別名「あふり山」と呼ばれ標高1251mあることから関東平野では突出し丹沢山系では独立峰となっていました。「あふり山」と言われるように常に霧や雲を生じて雨をもたらす恵みの山でした。その創建は古く、今から2200年余り前の天皇の御字と伝えられ、鎮護国家の神の山として力強い山系にミサイの神々を敬う心は熟成していったのです。

昭和の初めの7月のある日「阿夫利神社」にミサイは詣で、神前にいた老夫婦の病を聞き、そして痛みの処に手をかざすとたちまち病は治り、それを機に自らに不思議な霊力の具わることを確信しました。

ミサイは「古事記」の神系譜より、大山津見神(大山祗神)の娘、神大市比売(カムナオホチヒメ)と速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)の間に生まれた宇加之御魂神(ウカノミタマノカミ)を宇田帰御宮と別称してこの二神すなわち親とその孫を祭神として勧請しました。宇加之御魂神は、穀神・稲荷神なのでそれを分けるために別称しました。

ミサイは、江戸川区東小松川に大山祗神(男神)と宇田帰御宮(女神)を勧請し、この二伸を合体して宇田帰御宮大山祗神と名付けました。そして東小松川の神殿には、病に苦しむ人達であふれ、これらの人々を救い、健康維持に祝詞を神殿に奉ることを主要な教化としたのです。