古来の神様に感じる人間臭さ
そもそも日本の古来の神様って、色んな意味で人間臭いってご存知でしょうか。
西洋の神様も、日本の仏様も、日本人が持っている今の神様のイメージって神格化という言葉通りどこか超越していますよね。
常人には理解できないような、卓越した考えを持っているからこそ神様を崇め奉りついていく、そんな「絶対的なリーダー像」みたいなものがどこかにあるかと思います。
ギリシャ神話などもそうですが古今東西大昔の神様って、日本の古事記などに出てくる神様もなんだかワガママだし、ダメな人間の代表みたいな神様に読み解いていると度々出会います。
昔の人たちが紡いだこれらの神々の物語は、その時代の人たちが感じた葛藤や苦しみ、喜びや楽しさを表しているものでもあるのです。
時代が荒れた時、避けられない大災害が起こった時、大病を患った時、希望を失った時、人は神様に縋ります。
だからこそ人々は清廉潔白な神を望むのかと思いきや、自分たちに近しい人間臭い存在を神様として崇めることで神様と苦しみを共有しようとしたのかもしれません。
人々と一緒に生きた確証のある仏教などの教祖・開祖の方が、むしろ人間臭さが消えているように思えます。
常に人々のためにあれ、自分を律せよ。
そう民衆に説いた教祖たちは、人間というものがいかに移ろい迷う生き物かということを良く知っていたのでしょう。
平和教の教えは、何かを無理やり変えようとはしていません。
あるがまま自然に育ってきたものを大事にして、先祖が育ててきたいのちを大事にする。
特別な修行をしなくても、受けることを大事にする。
そうした無理のない修行が、人間臭い自然な古来から続く神々に近付く方法なのかもしれませんね。

